映画『朝が来る』(ネタバレ・感想)
あらすじ
一度は子どもを持つことを諦めた栗原清和と佐都子の夫婦は「特別養子縁組」というシステムを知り、男の子を迎え入れる。それから 6年、夫婦は朝斗と名付けた息子の成長を見守る幸せな日々を送っていた。ところが突然、朝斗の産みの母親“片倉ひかり”を名乗る女性から、「子どもを返してほしいんです。それが駄目ならお金をください」という電話がかかってくる。当時14歳だったひかりとは一度だけ会ったが、生まれた子どもへの手紙を佐都子に託す、心優しい少女だった。渦巻く疑問の中、訪ねて来た若い女には、あの日のひかりの面影は微塵もなかった。いったい、彼女は何者なのか、何が目的なのか──?
ひかりを名乗る女性は誰なのか?というサスペンスを物語の主軸に置きながらも、一人の男の子・朝斗をめぐる人間ドラマを丁寧に描き出しており、大変胸を打たれました。
朝の海辺、桜、青空、木々の緑、夕焼け、光の中に包まれていくひかりの顔…
今でも頭の中に浮かんでくる、美しい映像の数々も印象的な作品です。
河瀬直美監督ご自身が「特別養子縁組」されたというご出自があるとのこと。河瀬監督ご自身の個人的な経験が強く反映されている本作は、小説を原作としていながらも、実感を伴うリアリティのある作品であると感じました。
以下、ネタバレ込みで感想をつらつらと書いていきます。
朝斗と佐都子と清和と
「大空くんが言うには、朝斗くんに押されて、落とされたということみたいなんです」
幼稚園から掛かってきた1本の電話により、佐都子は思いも寄らず混乱の中に叩き込まれます。
幼稚園での保護者面談、大空くんママからの慰謝料請求、ご近所関係の悪化…
佐都子は混乱の中で動揺しながらも、持ち前の強さで折れずに朝斗を守りながら状況に臨んでいきます。大空君が自ら飛び降りたことを打ち明けて事態が収束するまで、混乱は数日間続きます。
この混乱の中で、佐都子は朝斗を100%信じ切れていない自分が心の中にいることに気付かされれるのです。
佐都子の動揺に気づいたのか、朝斗から、
「ぼく、大空くんを押したって言った方がいい?」
と言われた時、はっと息をのむその感覚が非常にリアルでした。
そして明らかになるのは佐都子と清和の無精子症を巡る苦しみ、そして絆。
「特別養子縁組」制度を利用するに至るまでの経緯を描いたこの場面では、佐都子と清和の苦悩が丁寧に描かれます。子供を持てない夫婦が養子を受け入れるまでに経験する一つの問題として、不妊治療に関する苦悩が非常に印象に残ります。そして、栗原夫婦は朝斗と出会い、朝斗の母である片倉ひかりとの邂逅の時を迎えます。
「自分の子供に疑いを持ってしまう」
子育ての中で多くの親が経験し、乗り越えていくであろう普遍的な悩みであるはずです。乗り越えるためには、非常に強い覚悟が必要となるであろうことが想像されます。その覚悟を想像して大変苦しくなる場面でした。
これに加え、朝斗がこの夫婦の養子であること。このことを踏まえてこのシーンを振り返ってみると、佐都子の苦しみは一層深いものに感じられます。「自分と血がつながっていないから、この子を信用できないんじゃないか」。里親の立場として絶対に避けたいはずのその考えが頭をもたげてきているのではないかと想像してしまい、胸が痛みました。
このように「養子を育てる」ことの中でも深くセンシティブな部分を実感を伴って描いているのは、本作が大変優れていると感じる大きなポイントです。河瀬監督ご自身の幼少期の経験が反映されているのだろうと想像します。
朝斗とひかり
「子供を返してほしいんです」
平穏な日々が帰ってきた佐都子の元へ1本の電話が掛かってきます。電話の主は、朝斗の実母にあたる少女・片倉ひかりを名乗り、朝斗の返還を要求してきました。
「会えへんときもずっと一緒な」
中学2年生の片倉ひかりは、麻生巧からもらったミサンガを左腕につけています。家にには居場所がありません。美しい時間を感じながらひかりは巧と身体を重ねます。
数か月後、ひかりは医者から妊娠していることを告げられます。未熟すぎる巧はひかりを支えることができません。両親から強制され「特別養子縁組」の施設「ベビーバトン」へ入寮したひかりは、子供を養子に出す前提で出産の準備を進めていきます。このときもひかりの腕にはミサンガが結ばれています。
そして産まれた赤ちゃん。ひかりは赤ん坊を里親となる栗原夫婦へ引き渡します。「この子を産んでくれてありがとうございます」という佐都子に対し、ひかりは「ごめんなさい」と応じ、手紙を1枚手渡します。栗原夫婦の目には優しい心を持つ少女としてひかりが映ります。
そして今、栗原夫婦の前には、片倉ひかりを名乗る女性が座っています。子供の返還、もしくは金銭の譲渡まで要求するその女性と、朝斗を引き受けた時に夫婦と会った片倉ひかりとは全く重なりません。この女性はひかりなのか、別の誰かなのか。この疑問が強く湧き上がってきます。
ひかりにとって巧との関係がいかに純粋でかけがえのないものであったのかが伝わってきます。ミサンガを使った演出も見事です。対照的に、ひかりの家族をはじめとする周囲の大人たちがいかに自分たちの価値観を押し付けようとしてくるかも。ややステレオタイプな描かれ方をしている感は否めませんでしたが、ひかりの心情へは自然と寄り添うことができました。
ひかりを描くこのパートでは、ひかりの心の綺麗さを表現するような美しい映像が重ねて描かれます。特に、巧との交わりに至るまでのシーンは、これまでかというくらい美しい手持ちカメラ映像が多用されており、息をのみました。
対照的に、ひかりの自宅でのシーンは圧迫感や閉塞感を感じさせる暗いシーンとなっており、ひかりの気持ちに自然と寄り添わせる作りとなっていたのが印象的でした。
ひかりの心が美しく清らかに描かれるほど、栗原夫婦の前に表れた女性がひかりと結びつかなくなります。ひかりの心を美しく表現するだけでなく、サスペンス的に盛り上げる機能も果たす、考えられた構成となっています。
朝が来る
「あなたは誰ですか」
栗原夫婦は片倉ひかりを名乗るその女性を片倉ひかりではないと結論付けます。しかし、その女性は紛れもなくひかり本人でした。両親の元を離れてから独力でなんとか生き続けてきたひかりですが、やくざから借金の肩代わりを要求されるなど大変な生活の中で、外形的性格を大きく変えられてしまったのでした。
「ベビーバトン」にて育んだ腹の中の赤ん坊との絆に突き動かされ、ひかりは栗原夫婦元を訪れたのでした。
本作の魅力を裏打ちしている大変大きな要素として、ひかりを演じる蒔田彩珠の実在感を伴った演技があります。心優しい中学生の少女が社会の苦しみに疲れ切った女性となる。最初と最後でここまで振れ幅の大きな役柄を、見事に演じ切っていました。元々は是枝裕和監督の作品に数多く出演していたとのこと。私個人は遅ればせながら本作で初めてお名前を覚えました。蒔田彩珠さん、これから注目していきたい俳優さんの一人ですね。
「朝斗だけでなく、その母のひかりまでも信じてあげることができなかった。」
佐都子の心情を思うと、大変胸が痛みます。自分の勝手な解釈で、ひかりがひかりであるということすら分からなかったのです。ジャングルジムに関する冒頭のエピソードとも呼応して、重ねて胸が痛む場面でした。
この作品の中では、ひかりのことを勝手な解釈で断定するステレオタイプな大人描写が出てきます。そのあたりの描写が、この作中で唯一ノイズに感じた部分でした。それでも、「勝手な解釈」に自ら気付いてはっとする佐都子を描いていることで、その部分の違和感も緩和されているように感じました。
また、本作では重要なポイントに朝斗視点の映像が挿入されています。数は少ないですが印象的な映像が多く、今でも頭に浮かんできます。
私の中で特に印象的なのは、栗原家の玄関から出ていくひかりの姿です。このシーンは、朝斗が本当にみた映像ではないですが、朝斗がひかりの存在を感じた瞬間にイメージした映像として見える構成となっています。真っ白い光のなかに包まれていくひかりの姿が大変印象的でした。そんな、頭の中に刺さるような映像が散りばめられているのも本作の大きな魅力を構成している要素なのだろうと思います。
印象的なシーンという意味では、本作は朝の風景に始まって夕方の風景で終わります。中学生のひかりが夕陽を眺めている印象的なシーンです。
おそらくこの映画のラスト。ひかりが朝斗と出会うその時に、ひかりにとっての朝がようやく来たのでしょう。
私は『朝が来る』というタイトルの意味をそのように解釈しました。
このように広い解釈の余地を残すような映像が印象的に胸に残る。素敵な作品でした。
作品情報
映画『望み』(ネタバレ・感想)
あらすじ
一級建築士の石川一登と校正者の妻・貴代美は、高校生の息子・規士や中学生の娘・雅とともに、スタイリッシュな高級邸宅で平和に暮らしていた。規士は怪我でサッカー部を辞めて以来、遊び仲間が増え無断外泊することが多くなっていた。ある日、規士が家を出たきり帰ってこなくなり、連絡すら途絶えてしまう。やがて、規士の同級生が殺害されたニュースが流れる。警察によると、規士が事件に関与している可能性が高いという。行方不明となっているのは3人で、そのうち犯人と見られる逃走中の少年は2人。規士が犯人なのか被害者なのかわからない中、犯人であっても息子に生きていてほしい貴代美と、被害者であっても彼の無実を信じたい一登だったが……。
(望み : 作品情報 - 映画.comより引用)
終始胸を締めつけられるように感じる作品でした。
息子・規士が失踪して以降の展開はもちろんですが、まだ何も起こっていないはずの序盤の平和なシーンを見ていても、どこか落ち着かないというか居心地の悪さみたいなものを感じたんですよね。
精神的に弱っている人にはダメージが強い作品だと思います。人間の嫌な面を見せつけられても、ある程度距離を置いて考えられるコンディションの時に観に行くことをおすすめします。
以下、ネタバレ込みで感想をつらつらと書いていきます。
<普通の>日常に忍び寄る一抹の不安
本作の冒頭。石川家の歴史を想像させる数枚の家族写真が映し出されます。
七五三、キャンプ、中学入学、高校入学・・・。
どの写真にも<普通の>家族の<普通の>記録が写っています。特別なものは何もありません。私自身が小さい頃の家族写真を引っ張り出してみても似たような写真が出てくるはずです。
そして、そう感じているのは一登や喜代美も同じでしょう。
自分たちの息子や娘は、<普通の>家庭で<普通に>育ってきたものだと信じて疑っていないはずです。
むしろ、他の家の子供よりもうちの子供の方がいい子だとすら思っているような節があります。
我も家族写真を見ている時はどこにでもいる普通の家族だと思っていました。ところが、この家族には<普通>とは少し違う面もあることが少しずつ分かってきます。
この家族から感じる違和感、それは「家庭環境内のプライバシーのなさ」です。
一登は一級建築士を営む都合上、度々顧客を自宅へ内覧させています。これは自らの手腕を顧客へ売り込んで信頼を得るために必要なことです。
このことは家族全員承知していることのようですが、仕事中の喜代美がお茶汲み役に駆り出されたり、子供が部屋にいる時であっても子供部屋の中まで内覧させていたりと、傍から見ると家族が仕事の犠牲になっているように感じます。
この環境に喜代美や雅は適応できているようですが、年頃なのもあってか規士は腹に据えかねている雰囲気です。その気持ちに一登や喜代美は十分寄り添ってあげられていない様子。
これは規士が不満に思っても仕方がない状況です。このことに規士一人が我慢を強いられている状況には不安な気持ちが湧いてきます。
サッカー部を辞めて以降の規士は顔にあざを作ってきていて、生活も荒れていました。更にはある日、この不安を裏付けるような出来事が。規士が切り出しナイフを購入していたのです。一登が問い詰めても、規士は購入の目的を話しませんでした。ナイフは一登が預かり、デザイン事務所の工具箱へしまいます。
それから2週間くらいが過ぎて、規士は失踪するのです。
映画を観ていて感じる違和感。
これに一登や喜代美が気付いていない様子であることが妙にリアルでした。
一登も喜代美も自分たちの生活は<普通>であると信じています。
もしかしたら「少し<普通>とは違う」くらいには思っているかもしれませんが、そのことで息子や娘に問題が発生するとまでは思っていないでしょうし、思おうとしても思えないでしょう。
私自身、第3者の目線でこの家族を見ているからこそこの違和感を感じられるのであって、当事者であったとしたら気付かないと思います。
そもそも、<普通>に生きることなんてできないんですよね。
どこまでが普通でどこまでが普通ではないのか、ということは分かりません。
それなのに、人は自分の中の<普通>を色々な場面で当てはまて考えてしまう。そして時々、誰かとの軋轢に気付いた時、そこで初めて自分と相手の<普通>が違っていることに気付くんですよね。
気付いた時にはもう手遅れで、取り返しのつかない程に関係性が壊れてしまった後だったりすることもある。しかも、親しければ親しいほど気付いた時のダメージは大きくなったりしますね。
そういう時のいたたまれなさを知っているからこそ、ここまでの場面を観ている時は、胸が苦しくて苦しくて仕方がなかったです。
規士は被害者なのか?加害者なのか?
規士が失踪して以降、一登と喜代美、そして雅は思いも寄らず、究極の岐路に立たされます。
「自分の息子は、被害者なのか?加害者なのか?」
被害者なのであれば、息子は死んでいる。逆に加害者であれば、一登たち家族は一生<殺人犯の家族>として生きていかなければならなくなります。
どちらに転んでも、最悪です。
規士が殺人の加害者であるとは到底思えない一登は、規士を信じようとします。
「確かに最近の規士は荒れていたけれど、だからといって人を殺すような人間ではない」というのが規士の<望み>です。
しかし、この<望み>は同時に「規士が死んでいる」ということを肯定することとなってしまいます。
喜代美はそんな一登の想いに同意することができません。
「万が一人を殺すような過ちを犯していたのだとしても、規士が生きていること、いつか帰ってきてくれること」それが喜代美の<望み>です。
実家から帰ってきた母の助言や雑誌記者とのやり取りの中で、喜代美の想いはどんどん強くなっていきます。
喜代美の<望み>は「規士を信じていない」主張だと捉えることもできます。それでも規士のため、家族のために強くあろうとする喜代美の思いは真っ直ぐであり、簡単に否定できるものではありません。
雅にとっては、殺人犯の兄を持つことになるのが一番堪えられないことでした。
もし規士が殺人犯だということになったら、これまでの生活は続けられなくなります。
高校受験まであと1か月程度あまりであるにも関わらず、それまで必死に勉強して目指していた志望校を受験することができなくなってしまいます。
「殺人犯の兄を持たないこと」これが雅の<望み>でした。
若さ故に兄よりも自分の立場を優先させてしまう、という側面はあるのでしょうが、同じ立場に立たされた時に、自分が雅のような考え方をしないと自信をもって言うことは私にはできません。
同じことは一登にも言えます。規士が犯人ではないかと噂されてからは仕事上の付き合いが断ち切れ、顧客からもキャンセルの電話が鳴り、これまでの仕事を続けることは到底不可能になりそうでした。
一登の中でも規士を信じる心にほつれが生じ始めたのでした。
こうして、家族はどんどんバラバラになっていきます。
「自分が一登や喜代美と同じ立場に立たされたらどうするだろうか」
ということを終始考えさせられました。
2人の主張はそれぞれ、ある面を切り取れば正当な主張でも、別のある面を切り取れば最悪の主張となります。だから、どちらに共感するかは人によって意見が分かれるところだと思います。どちらが正しいとは言えないでしょう。
「私だったらどうするか」といった切り口で考えた場合、私はおそらく、喜代美と同じような考えに至りそうだと思いました。
とにかく生きていてほしい。だからこそ、規士が殺人犯であるということを受け入れる。
殺人犯の家族となった時のこと、殺人犯となってしまった息子を受け入れていく時のことを想定して、心の準備を整えていく。覚悟を強めていく。
「息子を信じられないのか」と言われてもいい。冷酷だと言われてもいい。殺人犯を育てたのだと世間からレッテルを貼られることになっても仕方ない。仕事を失っても、家を失っても、家族がバラバラになっても仕方ない。大切な人全員が自分の元を離れていっても受け入れる。とにかく、息子が生きてさえいてくれば…。
私も、心がぐちゃぐちゃになった後で同じような心境に至りそうです。
(上記のような覚悟をしたところで、本当に最後までその覚悟を貫き通せるかは置いておいてですが…。)
だからこそ、 スーパーの駐輪場で喜代美が自らを省みる、あのシーンが私は忘れられません。
「自分は、息子を信じない、ということを強く覚悟していたのだ」
と。
そう気づいてはっとするその瞬間。自分の愚かしさに自分で気づくあのシーンを私は忘れられません。自分の信じていたこと、貫き通そうとしていたことが間違っていたのだと気付くあの瞬間を。
買い物袋を自転車の籠に押し込んだ後のあのシーンは、ずっと忘れられないと思います。
— こんてな (@kontenaneko) 2020年10月23日
そうやって人が「前に進む」瞬間を描いてくれている。私にとってこの作品は、忘れ難い作品となりました。
これはどこにでもある話なのです
本作の最初と最後、作品を挟むようにドローンによる空撮のシーンが挿入されています。この演出が私は好みでした。
この空撮のシーンがあることで、この作品で語られた全てがとても普遍的でどこにでもあるようなことに感じるんですよね。
エンドロールシーンは、今年観た中でもダントツで好きでした。
石川家の邸宅がどんどん小さくなっていき、周りの民家が見えてくる。行きかう車、少し離れた民家や集合住宅が見え、その向こうのスーパーマーケットが見え、最後に遠くの山、海まで見えた時には、石川家も有象無象の中の1つでしかなくなります。
つまりは「この石川家があなたの街にもあるんだよ」ってことですよね。
重厚なミステリー性と普遍性を兼ね備える本作にはぴったりのエンドロールだと思いました。
「あなたの街」だなんて他人事のように言っておいて、「私の家族」が同じような立場に置かれるようなことはないようにしなければですね。。。